悪と何か?
人間は、自分とは異なる考え方や意見をもつ他者との関係のなかで、初めて人間らしさや複眼的な視座を保つことができるとアーレントは考えていました。多様性と言ってもいいでしょう。アイヒマンが加担したユダヤ人抹殺という「企て」は、人類の多様性を否定するものであり、そうした行為や計画は決して許容できないというわけです。アーレントは人類の多様性を否定することを「悪」だと考えていた。
1920年代後半から、ムッソリーニたちが自分たちの運動を「全体主義」と形容するようになった。それまで地域共同体や階級のなかに押し込められていた人たちがそこから流れ出し、「アトム」と化した結果、国民国家運動へと駆り出されたとも言える。
人権は万人にあるというのは幻想だったということです。人権を実質的に保障しているのは国家であり、その国家が「国民」という枠で規定されている以上、どうしても対象外となる人が出てしまいます。国民国家という枠組み自体も、強固なものではありません。民族という曖昧な(アーレント曰く、架空の)概念で崩せてしまうほど不安定なものであり、戦争や革命が起きれば、もはや何の役にも立ちません。全体主義のキーワードは「大衆」「世界観」「運動」そして「人格」だ。
ナチスドイツは最後にユダヤ人の「人格」を抹殺しようとした。ガス室に送るだけでなく、もともと存在しなかったように生存の記録も消した。
この本の帯に「なぜ、誰も止められなかったのか」と書かれている。
その答えは、ミルグラムのアイヒマン実験(ミルグラム実験)が証明しているのだろう。
ある条件が整うと、8割以上の人が「悪」を指摘できない。止められないのだ。
ミルグラムの実験は、閉鎖的な環境において、権威者に従う行為でどこまで残虐になれるかを明らかにした。専門家の言説、権威者、決められた手続きの指示通りなどによると8割の人が被験者に電気ショックを与える指示をしてしまう。
ある条件がそろえば、誰も「悪」を止められなくなる。
そうならないためには「複数性に耐える」ことがその鍵になると仲正氏は言う。
「複数性に耐える」とは簡単にいうと、物事を他者の視点で見ると言うことです。
アーレントが複数性にこだわっていたのは、それが全体主義の急所だからです。複数性が担保されている状況では、全体主義はうまく機能しません。だからこそ、全体主義は絶対的な「悪」を設定することで複数性を破壊し、人間から「考える」という営みを奪うのです。考えることを失うことはアーレントによって「無思想性」と呼ばれている。
仲正氏がアーレントにこだわるのはこの点。考えること。
マイケル・サンデルの方法を学生の意見を政治思想のタイプで相対化して考える方法として仲正氏は評価している。