こんなにわかりやすくヴィトゲンシュタインについて書くと、ある種の批判は免れないと思う。
ヴィトゲンシュタインの本をう~ん、う~んと格闘しながら読んでいた人たちからの批判だ。
中村昇氏は、ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で言った「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」ってことを、例えば倫理について説明している。
倫理について、いろんな人があれこれ難しいことをいろいろ言う。それは当然で絶対的な倫理って言葉で表せないから。
一方、ヴィトゲンシュタイン自身は、論理は絶対的なものと考えている。語りえるものなんだろう。すべての言葉の後ろにある論理。それは絶対的なもの。いろんな言葉を成り立たせる骨組みみたいなものととらえる。
でも、論理について語った後、それは相対的な議論の対象になるので、語られる倫理と同じみたいだが。ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』自体を沈黙すべきものであったと思っているみたいだ。

しかし、一方でヴィトゲンシュタインは絶対的な倫理はあると考えている。
表層の文法ではなく、深層文法とよぶべきものが、論理にも倫理にもある。
人と人との間に言葉ではなく通底するものとでもいうべきもの。
「人を殺してはいけない」という倫理が絶対的なものとして捉えられることが倫理たらしめるもの。それは語られるものではない。行為として誰もが行っていること。
その分析的思考がヴィトゲンシュタインの前期にやっていたこと。

後期は、「言語ゲーム」が有名。
これはどうやら、言語学者が言語を体系化したりするものとは正反対のことなんだと思う。
使っている言葉、これを誰もが意味として交わしている。そのうちにゲームとでもいうべきルールの親戚みたいなものができる。
使う場面で意味が成立する言葉。
言葉でたいていのことは表される。言葉は生活空間に支えられている。
中村昇氏が捉える『哲学的探究』はそんな感じ。

しかし、やはり言語ゲームをする人間にも語りえぬものがある。
それが深層文法とでもいうべきもの。ここで、ヴィトゲンシュタインの前期のテーマと後期のテーマが交錯する。
ヴィトゲンシュタインは第一次大戦に従軍していた時に、トルストイの『要約福音書』を肌身離さず持っていたとか。
疑いは信じることがあって初めて成立する。デカルトの『方法序説』をヴィトゲンシュタインはそう批判した。信じるもの。それは宗教的体系ではなく、もっと素朴な語りえぬものなんだと思う。

ハイデガーについてのヴィトゲンシュタインの評価のことが少し書かれているが、イギリス系の分析哲学のなかに位置づけられるヴィトゲンシュタインにとって、現象学や実存主義というのは「語りえぬもの」だったんだろう。とてもめんどくさく無駄な戯言。
主観と客観の対立の終焉とか、超越論的自我なんてどうでもよかったのかもしれない。
ヴィトゲンシュタインは「私」を世界の境界に置いた。
世界と非世界の線上に世界を認識する「私」がいるってことなんだろう。
宇宙人としての「私」の存在を想像すると、ヴィトゲンシュタインの言いたいことがなんとなくわかるような気がする。
誰かと共通する言語を持たない私。
テレパシーで誰かと通じ合う私。
そういう私にとって言語を使う人たちは何かのゲームをしているに過ぎない。
そう、世界が在ることこそ驚きなのだ。