書肆じんたろ

読書は著者との対話、知りたいことのseek & find、ひとときの別世界。 真理には到達できないのに人々はそれを求め続ける。世界が何であるかの認識に近づくだけなのに。正しいことより善いことのほうがいいときもある。大切なのは知への愛なのか、痴への愛なのか。

2009年02月



こういう小説こそ読みたかったのだ、と読み終えたときに思った。



仕事が忙しいので毎晩少しずつ読んでいた。けれど読んでいる日々は何とも憂鬱な気分だった。この小説の持つ時代の重さのようなものが伝染したのだろう。でも夜中に少しずつ読むのが何よりの楽しみだった。



『テロリストのパラソル』をあえてジャンル分けするならミステリー・ハードボイルドなんだと思う。けれどそういうジャンルを超えた力強さを感じる小説だ。全共闘とか赤軍派、『腹腹時計』という爆弾作りの本なんかが売れて、破壊や暴力、テロが一種時代のシンボルになった頃の空気を感じる小説だ。



「われわれが相手にまわしていたのは、もっと巨大なもの、権力やスターリニストを超えたものだって気がしてきたんだ。いわゆる体制の問題じゃない。もちろん、イデオロギーですらない。それはこの世界の悪意なんだ。この世界が存在するための必要な成分でさえある悪意。空気みたいにね。その得体の知れないものは、僕らが何をやろうと無傷で生き残っていくだろう。そこでは自己否定なんて、まるで無力だよ。意味がない。結局、ぼくらがやっていたのは、ゲームだったんじゃないのかな。それもつぶすかつぶされるか、みたいなゲームでもない。最初から、負けはわかっていた。それでも、まあ、やってみよう、そう決心して始めたゲームさ。だけど、世界に不可欠な悪意がぼくらをとりまいていて無傷でいる以上、もう手の打ちようがないんだよ」



小説の中ほどで主人公の友人がいう台詞がこの小説のすべてを語っているように思う。



世界に潜むニヒリズム(虚無主義)。これは時代を超えてウイルスのように伝染するのかもしれない。とくに経済が成長して、社会の価値観が切り裂かれる時に広く伝染し、豊かな社会では常に一定数の感染者がいる。ある時はテロリスト、ある時は左翼過激派、またあるときはカルト宗教団体の形をとって幽霊のように存在する。

麻薬もまた世界を破滅させる爆弾なのだとも思った。

ふだん気が付かないけれど、世の中でじわじわと広がっている悪魔的なものを感じさせる小説だ。



学位を取るのに10年以上かかっても就職口がなく、パチプロとして生活する博士。非常勤講師や肉体労働で食いつないでいる博士など博士号取得者の「悲惨な」生活実態が描かれ、これは無計画な文部科学省の大学院増設政策の犠牲者だという。大学の教員(とくに地方国立大学の教員)も自分の研究室に所属する大学院生欲しさに安易に進学させたのでこの事件の共犯らしい。政府は学歴にふさわしい職を与えるべきというのが著者の主張。

大学院修了生は無能だから職がないのではなく、研究室や学会、教員らとの細々としたつきあいも多いのでコミュニケーション能力も高いという。



「高学歴ワーキングプア」は今や社会問題となり、文部科学省もポスドク対策などを通知したりしているので、この本の主張は的はずれなことばかりではないと思う。

秋田県の教育委員会などは博士号取得者を優先的に教員に採用する方針を出している。



しかし、「高学歴ワーキングプア」問題はいろんな要因が絡みあっていて問題設定とその解決はそう簡単ではない。

この本では職のない博士号取得者が被害者で政府や大学が加害者のように描かれている。けれど最近の「内定取り消し」学生と破綻企業のような契約上の問題があるわけではない。つまり誰が被害者で誰が加害者かという証明は簡単ではない。

それに博士号取得者が博士号を取得した後で、初めて職がないのに気が付くということはまずない。博士は専門領域の知識には造形が深いが、職業需給ギャップの知識には疎いのだということには説得力がない。研究者の多く(特に文系)が将来のことなど深く考えずに大学院に進学し、気が付いたら後戻りできなくなっていたということなのだろう。自分自身のキャリア設計におけるリスク管理の問題でもある。



採用試験の面接担当者になったりすると、大卒後2年で転職した者と大学院修了者では明らかに社会体験に差があり、コミュニケーション能力にも差があるのがわかる。

「これまでで一番つらかったことは?」とか「達成感を感じたことは?」と聞くと大学院修了者は「修士論文を書き上げたこと」が一番多い。文系の研究で、冬にこたつに入って眠いのをガマンしながら書きあげたことが人生で一番達成感のあったことと堂々と言われると、???と思う。2年間の研究生活は何の目的があって、誰のために費やした時間なのだろうか。そういうことを面接で言って、感心する面接官がいると思っていることが信じられない。



 文部科学省は大学院時代のインターンシップなどを奨励しているようだが、社会体験を得るためにはそれも一つの方法だろう。

 ミンツバーグはビジネススクールは企業経営のようにアート(直感)、クラフト(実務経験)、サイエンス(分析)のバランスが必要と言っていた。ビジネススクールに限らず大学院教育にはこれら3つのバランスが必要なのかもしれない。

 この本自体は薄っぺらな内容だと思うが、この本をきっかけに大学院で学ぶ意義と今の大学院教育の問題点をあらためて考えさせられる。

自分にかける魔法の言葉
松林 博文
ソフトバンククリエイティブ
2004-01


ロシアの神秘主義者グルジェフについて書かれた本に線を引きながら読む人って、松林先生以外これからもまず一生出会うことはないだろう。

そういう著者に興味があって読んだ。



これはビジネス書でなくて完全に詩集である。

そうでないと空白の多い紙の使い方がもったいなすぎる。

見開き2ページに数行の日本語とその英文(著者による原書の英訳なのかもしれない)、その言葉を発したあるいは書いた人の名前と職業、生年~没年。

ノンブルがやけに大きく見えるページもある。





目が見えるのに

ビジョンが

見えないなんて..



なんて

かわいそうな

人なんでしょう



ヘレン・ケラー







まるで

明日

死んでしまうみたいに

生きて



まるで

永遠に

生きられるように

学びたい



マハトマ・ガンジー





こういう素直に感動する言葉もたくさんある。





既存の

システムを

破壊したい

という欲求は



新しいものを

創造したい

という欲求

でもあります



ミハイル・バクーニン(ロシアの革命家)





バクーニンなんてどこで出会ったんだろうと不思議に思う。

なにもバクーニンでなくてもシュンペーターでも十分なんじゃないかと思う。

ミシガン大のMBAがバクーニンまでもってくるか?



シュターナー、ユング、アインシュタイン、老子から歌手のエラ・フィッツジェラルドまで古今東西の偉人やそうでもない人からも縦横無尽に言葉が集められている。

この本を読むとロシアの神秘主義者グルジェフに行き着いたのもわかるような気がする。



ほんとに魂を探しているんだろう、と思う。



村上春樹の新しい小説を年末年始に読みたかったのだが、出版されなかったので、代用品を探していた。あるホームページのQ&Aコーナーで誰かが「村上春樹ファンになってから、村上春樹以外の本を読む気がしなくなった。村上春樹の作品を全部読んでしまったので、お勧めの本はないか」というばかげた質問をしていた。これはもしかしたら自分じゃないかと思ったが、世の中には似たような感覚の人がいるものだ。

そのコーナーで誰かが勧めていたのが伊坂光太郎の『アヒルと鴨のコインロッカー』だ。

読んでみるとホントに村上春樹によく似ている。文体も話の展開も。

でもグッときた文章は「助けられる人は助けたい」と感情のなかった麗子さんがいう台詞だけだった。ちょっと村上春樹とは違うような気がした。

私が村上春樹の長編に求めているものは社会の深層心理のような深い気づきなのかもしれない。この作品にはそういうものはないように思う。物語としての面白さ、村上春樹のいうseek&findは満たしているが。



でもこの作品は小説としては完璧なのではないだろうか。文句のつけようがない。あまりに面白くて一気に読んだ。登場人物の個性の描き方も見事だし、ストーリーにも不自然なところが全くない。文体も洗練されている。



しかし村上春樹の作品を求めているなら、村上春樹の作品を何度でも読むべきだったと思う。村上春樹とは違うモノとして読むなら、この作品は実に素晴らしい。



でもこの本をきっかけに村上春樹以外の小説も読んでみたいと思うようになったのは大きな収穫だ。



アーカーの『ブランド優位の戦略』の訳者が書いた日本のブランド優位戦略論。

欧米が個別製品ブランド主導であるのに対して日本は企業ブランド主導であると一般的に言われている。しかし、著者らは製品ブランド戦略も企業ブランド戦略も日本では不十分であると考えている。

欧米との違いは個別製品ブランドの歴史や伝統がなく、「神話」や「ストーリー」という手法が使えない。

それを補うために日本では製品、組織、人格、シンボルの各次元のブランドマネジメントを忠実に明確に行っている傾向があるようだ。

これらもアーカーの概念の日本ケースへの応用である。

アーカーの『ブランド優位の戦略』の解説本としてはよてもよい。

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