書肆じんたろ

読書は著者との対話、知りたいことのseek & find、ひとときの別世界。 真理には到達できないのに人々はそれを求め続ける。世界が何であるかの認識に近づくだけなのに。正しいことより善いことのほうがいいときもある。大切なのは知への愛なのか、痴への愛なのか。

2021年02月



AGC(旧旭硝子)の事例とともに、チャールズ・オライリーの Explotion and Exploitation(探索と深化)の理論を展開している。
新規事業の探索と既存事業の深化を組織として結合させるのはとても難しい。
組織規模が大きくなると成功体験から慣性の力が働き、環境変化が激しいと既存のアラインメントを組み替えることが出来ず、組織は衰退する。
そのためには経営陣のトップダウンでの方針とミドルのアップダウンのを組み合わせて、新規事業の探索と既存事業の深化を組織力学の中で新たな均衡状態に移行させないといけない。
脱皮できない蛇は滅びる。意見を脱皮してゆくことを妨げられた精神も同じ事である。(フリードリッヒ・ニーチェ)この言葉を最終章の冒頭に引用している。
脱皮できない蛇は滅びる。
脱皮することを必要としない蛇。
脱皮する発想すらない蛇。
先は見えている。



コロナの時代にGAFA並の高収益を上げている企業。同業者の第2位が約50店舗、第3位が約45店舗のなかでこの企業は全国で885店舗を持つ。
ワークマンは個人向け作業着を主に売っている。この業界では新規参入もほとんどない。扱っている製品は高機能で低価格。代替品もない。
チェーン全店売上は1220億円で営業利益192億円、経常利益207億円、純利益134億円。10期連続最高益を更新中。
この本はその会社の専務取締役である土屋哲雄氏が書いている。
土屋氏は1952年生まれ。決して若くない。創業社長の甥にあたる。東京大学経済学部卒業後、三井物産に入社し、海外留学を経て、三井物産デジタル社長に就任。企業内ベンチャーとして電子機器製品を開発するなどジャングルリーダー型の活躍をした。
還暦前にこの会社に入ってから、ジャングルリーダーからサーバントリーダーに変身した。
ワークマンの経営とは、「しない経営」と「エクセル経営」なんだとか。
しない経営とは、よけいなことをしないこと。
まず、社員のストレスになることはしない。
残業させない。仕事の期限を設けない。ノルマと短期目標を設定しない。
おいおい大丈夫かと思うがそれだけではない。
ワークマンらしくないことはしない。 
具体的には、他社と競争しない。値引をしない(いつも何種類かの定額で売る)。取引先を変えない。
「善意型」サプライチェーンと呼んでるが、大口の納入先には自分で需要予測をさせてそれで納品させている。とんでもない善意型なのだ。
Amazonに負けないのは配送費をゼロにするために店舗に客が来るようにしているのだ。全国展開もそのため。
よけいなことをしないことは社内でも徹底している。 
社内行事をしない。会議を極力しない。社長は週に二回、専務は一回しか出社しない。他の日は店舗視察や取引先周りをしている。
これで幹部は思いつきでアイデアを部下に口にしなくなるそうだ。
もうひとつの「エクセル経営」というのは、マイクロソフトのExcelを社員がみんな使えるようにすること。それで製品開発から需要予測、売れ筋予測などをする。マクロを使う社員もいるし、そういう研修を徹底している。
DX(デジタルトランスフォーメーション)となると、専門家を呼んできたりすごいシステムを導入する会社があるけど、ワークマンはそんなことはしない。反対のことをするとか。
システムを作って終わりになりがちな、分析やデジタルデータの活用を、Excelで各社員がしこしこするほうが社員が伸びて、会社の業績も伸びるのだとか。
社員の給与も8年前の平均500万円から700万円に上がった。1000万円を目指しているのだとか。
最後に入山章栄教授(早稲田大学ビジネススクール)との対談もある。
土屋氏は入山教授の『世界標準の経営理論』を絶賛している。かなり分厚い本だ。それを志のある社員に勧めているのだとか。
入山教授もワークマンの経営を高く評価している。
センスメイキング理論や弱い繋がりの強さ理論を実践しているとか。もちろん土屋氏をサーバント型リーダーシップの典型だと言っている。土屋氏は社員の前で話をしたことがこれまで6回しかないらしい。仕組みをつくって社員が動くというのがワークマンのスタイル。
土屋氏は至る所で書いているが、上司は間違える、私も半分間違ったことをしたと。だからそれを正すのは部下であり社員だと言う。
しょせんブルーオーシャン市場での戦い型だと言えばそうも言える。
でも、学ぶべき事がたくさんある会社だと思った。
さっそくExcelの学び直しをするために本を買った。入山氏の分厚い本も読もうと思った。



自由が抑圧されているのは資本主義国家のせいだ、いやそれは近代国家からだ、いや国家そのものが原因だとか言う人もいる。
そもそも権力がある限り、人間の自由はないのだとか極端な論もある。
この本は、そういう批判がどうして生まれるのかを解説してくれる。それらがだいたい的外れなのだとも言う。
マルクスの国家論の本質は「幻想支配国家論」だと言う。グラムシ、アルチュセール、フーコーなどが代表的系譜。
この「幻想国家」批判は、ブルデューや吉本隆明、柄谷行人などを含み、「国家」は幻想であり、正当性を持たず、その「自由」は欺瞞的であるということを示してきた。
しかし、批判の対象となっている近代国家というもののルールは本当はどういうものか。理念としての近代国家は何を目指していたのか。それをヘーゲル哲学のなかに見て、現代の国家の矛盾は国家や資本主義の欺瞞性にあるのではなく、近代国家が生み出した原理の実現ができていないからだと竹田青嗣は説明している。
古今東西の論者は理念の批判と現実の批判を混同しているらしい。
人々は欲望から物をつくる。それを他人と交換し、他人が作った物を消費できるようになる。労働による生産を行い、それを人々は互いに交換し、それは「普遍交換」というべきどこまでも連なる交換を生む。労働は分業により生産力を飛躍的に向上させる。それは「普遍分業」とも呼ぶべき世界での分業体制を生み、それを消費するのも普遍交換により、「普遍消費」と呼ぶべき段階になる。
そのなかで役割を果たす「貨幣」には一般価値はあっても幻想はない。幻想というのは文学的トリックに過ぎない。
一方、人間は自由に所有する段階から他人との契約である法、市民社会レベルの契約から国家へと進む。人間の自由は自らの自己認識でその範囲がわかるが、市民社会の中では他人との相互承認でこそ自由になれる。
しかし、資本主義システムの中では、普遍競争の状態になり、普遍闘争から暴力を伴う普遍戦争に進む場合もある。本来国家こそが人々に幸福を約束すべき存在であるのに、国家間での普遍戦争という時代もあった。
資本主義は死滅しないし、国家も死滅しない。死滅すると逆にとんでもないことになると、竹田青嗣は言う。
近代社会のルールは、「自由の相互承認」、「一般福祉」(自分の家族と市民社会の利益が国家に統括されること)、「普遍資産」(社会が生み出した富は社会全体が所有するものであり、その配分の原理を見出すこと)であり、それは「普遍社会ルール」と呼ぶべきものである。
国家を否定するということは、自由の相互承認、一般福祉、普遍資産も否定することになる。
大混乱でしょうね、実際には。
普遍社会ルール、これを実現するのを資本主義国家のなかで模索する意外に道はない。
後半の経済学批判は、新自由主義批判に当てられているが、経済学者のスティグリッツらの主張することと哲学者の竹田青嗣が主張することが似ている。
哲学は資本主義を変えられるか?
この答えは「資本主義」のあり方を、哲学で考え直すことはできる。そしてそのシステムを人間が住みやすいように変えられる可能性はあるってことでしょうね。



タイトルが面白そうだったので買って読んでみたが、弁護士が書いた本だけあって、徹底した守りの策を提示している。
著者の問題意識は、日本の企業は総時価ランキングでも20位以内に一社も入らない。オリンパス、東芝、三菱自動車など不祥事は収まらない。それは監視監督の機能が働いていないからということ。
そのために、社外取締役や監査機能の強化を唱える。
内部監査や法的チェックなど徹底的にリスクを洗い出し、低減させること。などなど。
私立学校についても最後に少し書かれている。
外部から理事を招けば、統廃合などの撤退事業が進むだろうとか。
「学校法人などのように公益性が高く、社会的責任が大きい組織はどうしても現状維持の空気が強くなり、変革のための議論がしにくくなる傾向があるかもしれません」
これは電力会社やガス会社なども同じかもしれない。
弁護士がこういうタイトルで書くとこういう内容の本になるだろうという本だった。



NHK出版は早くからマルクス・ガブリエルの特集を書籍化しているが、これで四冊目らしい。
コロナの時期にドイツなどでインタビューした話が収められている。
もっとも印象に残ったのが、ボン大学でカール・マルクスのエピソードを紹介するところ。
1842年にカール・マルクスは友人のブルノー・バウアーとロバに乗ってバート・ゴーデスベルクに行った。その頃、ブルノー・バウアーはボン大学神学部の学部長で、カール・マルクスは神学部の教授になろうとしていた。二人はバート・ゴーデスベルクで無神論のビラを配った。
その結果、ブルノー・バウアーは解職され、マルクスは大学教授職に就くことはできなくなった。
その後、マルクスは新聞記者になったりして、「宗教は民衆のアヘンだ」とも書いた。
マルクス・ガブリエルはそれにならって、「科学は民衆のアヘンだ」と言いたいとか。
コロナ感染もとで、ドイツでは科学論争があったらしい。ボン大学のシュトレーク教授とベルリンを拠点とするドロステンという二人の学者を中心としたチームの研究成果をマスコミが、ボンvsベルリンの戦いのように描いた。科学の名のもとにロックダウンが必要だ、というテーマで、何かと何かの戦いにする。その中心になったのが、科学主義と衛生主義。
目に見えないウイルスとの戦いが別の戦いになった。
科学とは何なのか。
解明されていない新型コロナウイルスの感染実態を科学の名ですべて説明できる段階ではない。
科学とどうつきあうべきか?
マルクス・ガブリエルはAIが人間の知能を超えるというとき、その定義自体を問題にする。
ではその知能とは何なのかと。人間が制御できない機械とは何なのか?
ガブリエルは、人工知能を考えたアラン・チューリングを哲学者としては「ひどい」と評する。人間が制御する死角を作ってしまったからと。
アインシュタインは「まあまあ」の哲学者らしい。原子爆弾を作る余地を残したからとか。
「科学は民衆のアヘンである」という表現はよくわかる。
マスクをしていないことで、暴力事件が起きたりする。暴力事件でなくてもネットで中傷が書き込まれたりする。
街でマスクをしないことで誰かが感染する危険性と、暴力事件やネット書き込みは罪と罰のバランスがとれていない。
感染防止と倒産対策についてもどちらを優先すべきが簡単に答えを出せない問題だ。
物事は多様性、多重性、様々な物見方が可能だ。
マルクス・ガブリエルが「意味の場」と呼ぶ現象説明。
この本を読むと、それが少しわかる気がする。

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