書肆じんたろ

読書は著者との対話、知りたいことのseek & find、ひとときの別世界。 真理には到達できないのに人々はそれを求め続ける。世界が何であるかの認識に近づくだけなのに。正しいことより善いことのほうがいいときもある。大切なのは知への愛なのか、痴への愛なのか。

2021年07月



平常時のコミュニケーションを池上彰が、非常時のコミュニケーションを佐藤優が中心にでしゃべっている。
伝え方のブライトサイドスキルとダークサイドスキルの話のようだ。
ただ、池上彰は平常時のブライトサイドスキルも上手だが、非常時のダークサイドスキルにも長けているように感じた。

〇池上彰のわかりやすい説明の五か条

①難しい言葉をわかりやすくかみ砕く
②身近なたとえに置き換える
③抽象的な概念を図式化する
④「分ける」ことは「分かること」
⑤バラバラの知識をつなぎ合わせる

文章は極力短く。
なんだそうだ。

ただ、「ざっくり」というときは立場を明確にするのが必要なときがある。
パレスチナ問題をざっくり説明するって言っても、それはイスラエル側なのかパレスチナ側なのかが問題になる。
こういう場合は、自分の立場も述べてざっくり説明すればよいと池上彰は解説している。

佐藤優の方は、けんかしてから結束を強める場合や、懐に飛び込む技術などを話している。

また、最初の章でコロナ下でのリモート会議やZoom、Teamsの特性に応じた
使い方なども役に立つ。



『ダークサイドスキル』の木村尚敬の新刊!
30の事例を自分なりに解いて、その後、木村さんの解説を読むという仕立て。
ダークサイドスキルというのは、ブライトサイドスキルの対比でのネーミングだが、けっこう高度なように思える。
経験だけでなく、勇気とかリスクをとる覚悟とか資質もあるように思う。
読むだけで、任侠映画を見るくらい効果がある、かも。

経営者が知っておくべき ジョブ型雇用のすべて
白井正人
ダイヤモンド社
2021-07-07


「ジョブ型雇用」の反対語は「メンバーシップ型雇用」らしい。
職務型と終身型という従来の言い方と少し変わったが、本質的には同類の対比だろう。
アメリカ型と日本型ともいえる。
ただ、この本はもう少し深く掘り下げて、「ジョブ型雇用」は自分の意思で職を選ぶこと、個人と企業の競争を徹底させることをベースに置いているようだ。
企業例として、日本のソニーが取り上げられている。ソニーは1960年代から社内募集制度なんかを実施しているので、日本企業としては確かに先駆的なのだろう。
また、ジョブ型への移行の方法なども解説している。
グループ内企業のひとつをジョブ型に変える「出島方式」というのもあるらしい。
社内にジョブ型とメンバーシップ型を混在させるのはかなり難しいようだが、その方法もある。
移行にあたって、日本で一番難しいのは「退職勧奨」と「PIP(Performance Improvement Plan)業務改善プログラム」だろう。
強制力を伴う退職勧奨は違法になる。PIPもその結果、退職勧奨を強制すれば会社が訴訟で敗訴する。
「不当な心理的圧力を加えたり、又は、その名誉感情を不当に害するような言辞を用いたりする」のは違法である(東京地裁平成23年12月28日判決)ということも紹介されている。
既存の企業で組織の原則を変えるとき、「ジョブ型」とかスマートな言い方にしても、実際にはこのことが最も問題になると思う。
この本はあとがきでも「個人も会社も、もっとオープンに競争した方がよい」という考えだと著者は書いている。メンバーシップ型雇用では、昨今の急激な環境変化に対応できないのだと。
たぶん時代は良かれ悪しかれ、そういう方向に行くのだと思う。
しかし、これをもっと深く考えれば、この考え方の根底にはある人間モデルがあるのだと思う。
人間は誰も自由を求め、競い合うことで成長するのだ。自由意志でキャリアを選択することこそ、理想的な生き方なのだ。
とか。
しかし、実際には、競い合うことで破れる人もいる。生身の人間なので、プライドや嫉妬心もある。それを傷つけられることでコミュニティの安定ほうがぐらついたりする。自由意志で選んでいるつもりが、それは高学歴、著名企業が幸せを保障するのだというガチガチの先入観のためだったりする。
雇用の型を考えるとき、もう少し多様な人間モデルを考える必要があるように思う。
自由で能力に基づく組織。それが浸透すれば、能力格差による所得格差という問題が克服できない課題として残るだろう。



昔、買ったままの本だったが、「週刊文春」で平安女学院のゴタゴタが報道されていたので読んでみた。
2002年当時平安女学院は、毎年数億円の負債で、累積赤字が80億円。人件費比率は80%以上という経営状況だった。その学校法人を山岡氏は1年で黒字回復させたという。負債も一気に減らしていった。
その方法は、人件費カット、不動産処分、債務切りなどでよくある会社の再建と似ている。
では、どうして名門の私立学校がそこまで経営危機に陥っていたのか?
これはよく会社の場合とちょっと違う。
よくある会社はワンマン社長が好き勝手に事業に手を出したり、不要な不動産を買ったり、挙げ句の果ては高価な絵画や芸術品を買ったりして、経営難になるケースだ。
この学園は山岡氏が「組合立」と読んでいたほど、経営側より教職員組合側が強い形で経営がされていたようだ。組合が強いというより、理事会が弱すぎたのだろう。
山岡氏が組合との交渉で委員長に、「なぜ高額の給料や賞与をもらっていたの?」と問いただすと、委員長は「理事会が断ると思っていたのに、要求を飲んでくれたからです」と答えたとか。
マネジメントの不在。
経営者がいなかったのだ。ミッション、理念、経営戦略を描き、そのために資金を調達し、財務の収支を考え、組織を作り、運営する。それが統一的に行われていなかった。
2002年当時にこの学園を再建するには、救世主として大鉈を振るってくれる人が必要だったのだろう。
経営を取り巻く内部環境は、カルロス・ゴーンを呼んだ日産と同じような状況だったのだろう。
それに体力の割に経営戦略として事業を広げすぎていたのは、外から見ても明らかだった。
規模の小さい短期大学に四年制の大学を作り、滋賀県守山市にキャンパスを設置し、高槻にもキャンパスを広げていた。
守山キャンパスは自治体の誘致だったが、建設費捻出のために、山科区にあったグラウンドを建設会社に15億で売り、5年後に18億円で買い戻す契約だったとか。その間、そのグラウンドを年間3000万円で賃借する計画だった。
山岡氏はその契約を4億円を支払うことで、チャラにした。そのグラウンドは失ったが。
そのキャンパスを立命館に売却し、その後、立命館への特別進学コースを高校に作った。
それまでの「衆禺システム」を山岡氏は「衆禺独裁」にしたのだと書いている。
教授会という経営に責任をもたないところが議論して決めていたことを、議論はするが最後は経営に責任をもつ理事長が決める仕組みに変えたのだと。
一時、山岡氏は理事長、学院長、大学学長も兼任していた。
今回、「週刊文春」で問題にされている卒業式の話は、ここにも山岡氏の教育の考え方として載っている。今に始まったことではないのだと思う。

世の中には五種類の人間がいる。
一番目は、世の中に絶対必要な人。
二番目は、存在した方がいい人。
三番目は、存在してもしなくてもいい人。
四番目は、存在しない方がいい人。
五番目は、世の中に存在しては困る人。
魅力ある人間は一番目の人。せめて二番目にはなってほしい。

まあ、卒業式に話したら、保護者からひんしゅくを買うとは思う。
平安女学院を再建して、世の中の見る目も変わってきたのだろう。
変わっていないのは山岡氏ひとり、というところに問題があるのかもしれない。



いくつかの質問に答えたら、自分の立場が政治的に右か左か、経営者寄りか労働者寄りかを教えてくれる親切なアプリがある。
この二人がそのアプリを使ったらどうなるんだろうか?
というようなことを考えながら読んだ。
『この国を覆う 憎悪と嘲笑の濁流の正体』
こんなタイトルをよく考えたものだと思う。
日本学術会議の任命、愛知県知事のリコール、あいちトリエンナーレ中止、川崎のヘイトスピーチ、沖縄での「土人」発言など。
例のアプリでそんなテーマを質問すればいい。
“排他”と“不寛容”こそ、今の日本社会に漂う「気配」だと、青木理は言っている。
自分が知らないことは、自分とは違うカテゴリーに入れると安心する。安田浩一が川崎でヘイトスピーチを続ける人に、「どうしてこんなことをするのか?」と聞いたら、「気持ちがいいから」と答えたとか。
そんな二人が対談している。
「快」「不快」が重視される世の中。少し前まで保守や右だと思っていたのが、真ん中から左に追いやられる。
沖縄県知事の翁長雄志元知事なんかが典型。那覇市長や自民党の県連議長を務めた人だった。野中広務や後藤田正晴なんかは、沖縄への負担を常に心に掛けていたらしい。戦争を経験した歴史観や国家観があった政治家だという評価。
最近の官房長官や首相が重視するのは実務や人事権。
偏見や差別は「無知」から生まれるのが常だ。
偏見は、政治的な右でも左でもある。
憎悪と嘲笑。
この国を覆っている。ワイドショーなんかをたまに見るとそれを感じる。
この本を読んで、自分の政治的立場を知るアプリなんて必要あるのかと思った。
だいたい自分が右か左かより、何が正しいのかが大事なんじゃないだろうか。事実を知る。ジャーナリストはそういうことを伝える仕事なんだとあらためて思った。

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