書肆じんたろ

読書は著者との対話、知りたいことのseek & find、ひとときの別世界。 真理には到達できないのに人々はそれを求め続ける。世界が何であるかの認識に近づくだけなのに。正しいことより善いことのほうがいいときもある。大切なのは知への愛なのか、痴への愛なのか。

2021年08月



イスラム研究者の内藤正典教授と日本人イスラム教徒の中田考氏の対談。
この二人は2012年に同志社大学でアフガニスタンの関係者を呼んで会議を行っている。
集まったのはタリバン政権時代のパキスタン大使、カルザイ政権の国防相、反政府組織の代表。
それで講和について話し合ったとか。
なんでそんなことができるのか?
それは、中田氏がイスラム世界に通じていて、日本とイスラム世界との通訳のような役割を果たしているからだろう。
この本を読むと、アフガニスタンの問題、タリバンの成立、ISがどうやってできたかもよくわかる。
世界、とくにヨーロッパでモスリム排斥運動が起きる背景、グローバル資本主義の浸透とグローバルジハードが続く意味もわかる。
イスラム教は一神教だと言われるが、統治においてもイスラム法によってカリフがその地域を治める。異教徒を追い出すことがジハードなので、サウジアラビアに米軍が駐留することも排撃対象だし、アフガニスタンの米軍も同じという理屈なのだ。タリバンが勢力を盛り返したのもわかる。
この本を読んでいるとそういうことがわかるので、いつのまにか「あっち」の論理になってしまう。
モスリム的発想になれば、西欧型の自由、平等、人権、民主主義などの普遍主義がいかに一地域の価値観を別の地域に押しつけているのか疑問になる。
トルコのエルドアンは西欧化の先鋒だと思っていたが、実はイスラム法に通じた賢人だという評価も意外だ。カリフになれる人物だったとか。
この本はいろんな常識を覆す。
排除の論理で進めるのは終わりのない戦いになる。
講和について考えさせられる。

タリバン (光文社新書)
田中 宇
光文社
2014-08-22


この本は20年前の2001年に出版されている。
9・11同時多発テロ事件があって、その後、アメリカがアフガニスタン空爆から内政に干渉するようになった。その直後に出版された。
書いてあることはアフガニスタンの現代史と1979年以降にできたタリバンの歴史と内情の報告。
元共同通信の記者だった著者は現地でタリバンに同行取材もしている。
1979年以降のアフガニスタンの歴史はタリバンの成立、統治、反撃という歴史に重なる。
1970年当時アフガニスタンには国王が存在し、また、ソ連が援助した社会主義政党PDPAがあった。
1973年にクーデターが起き、PDPAと反国王派が連立の政権を作った。政権はソ連ともアメリカとも等距離外交で臨んだが、それを快く思わなかったソ連が、PDPAにクーデターを起こさせた。
ソ連としてはイスラム教国家より近代国家を目指そうとしたのだろう。
1979年のソ連の侵攻はそういう背景がある。ソ連は政権党PDPAの要請で侵攻したことにしている。
これにアメリカが反発したのは同然で、日本を含め、モスクワオリンピックのボイコットにまでなった。
その後、イスラムの国である隣国のパキスタンとソ連に対抗するアメリカは反ソ連のゲリラに武器供与などを行った。アフガニスタンを追われ、パキスタン国境に難民として逃れてきていた東部地域のバシュートと呼ばれる部族も多かった。そこで若者が神学校に通い、そうしてできたのがタリバンだ。タリバンは「学生」を意味する。
1989年にペレストロイカの過程でソ連は撤退する。
その後、反ソゲリラ活動を戦ったムジャヒディンと呼ばれる聖戦士たちの間で内戦が起きる。
タリバンや北部同盟などに外国も支援した。
パキスタンとアメリカが支援していたのがタリバンで、当時アメリカはタリバンのイスラム原理主義を批判していなかった。タリバンはイスラム教に基づく国家を作ろうとしてた。アメリカとも国交を結ぶ構想だった。ウサマ・ビンラディンをかくまったのは、あくまで客人としてだった。
そして、9・11テロが起きて、アメリカの介入が始まった。

タリバンもよくわからないところがある。
20年前と違うのは、イスラム国=ISがあの後できたことだ。
ビンラディンはもともとサウジアラビアの大富豪の一族でサウジアラビアの王室にも影響力を持っていた。対イラク戦をサウジアラビア王室に拒否されてから、独自の戦いに向かった。
ISが唱えるグローバル・ジハードと共通するものもあるのだと思うが、違うところもあるように思う。
タリバンは、ISができる前から存在するが、今ではISとも対立しているらしい。
タリバンは国境の難民で結成されたので、農村やましてや都市部のイスラム文化・風習と違うところもあるようだ。
女性に対する権利やジャーナリズムに対する考え方もほかのイスラム諸国とも違うところもある。
イスラム法に基づく統治をすると言っているが、その内容はよくわからない。

この20年前の本には、アメリカがタリバンと戦争をするのはアメリカにとって不幸にしかならないという趣旨のことを書いてある。アフガニスタンはその前の20年間も戦争状態だった。アフガニスタンにとって戦争が長引くだけのこと。しかし、アメリカが介入すれば市民も死ぬ。そしてアメリカは抜けられない泥沼に入ることになる。
そして、その通りになった。

今、アフガニスタンで起きていることはそう不思議なことではないのかもしれない。



アフガニスタン政府の瓦解が早すぎたのか、今のアフガニスタンを知るためのあまり良い本がない。
そこで去年の1月に出版されたこの本を読んだ。
世界で内戦が問題になった地域について和平を進める難しさなどとともにコンパクトに書かれている。イエメン、南スーダン、アフガニスタン、シリア、イラク、カンボジア、東ティモールなど。
著者自身がNHKのディレクターとして内戦取材に関り、その後、国連の政務官などを務め、研究者になり、平和構築と関わる体験も書かれていて興味深い。

軍事紛争は4つのタイプに分類できるらしい。
①国家間の戦争
②純粋な内戦
③内戦をきっかけに始まったものの、特に外国の部隊が軍事的に介入し国際化したもの
④植民地からの独立戦争

現在、国家間の戦争は減り、95%は内戦になっている。
内戦は国家間の戦争より終結が難しい。
それは、相手を壊滅するまで戦おうと考えているケースが多いこと、相手に対する「不信」や「恐怖」があり判断が難しくなること、相互不信のあるなかで国家を一つにして一つの軍隊にまとめるのが難しいことなどが要因にある。

平和構築を誰が行うのかという問題も難しい。
当事者の国か、占領した大国か、国連かということになるが、アメリカが単独で手掛けて成功した例は、日本、西ドイツ、パナマ、グレナダの四つしかないらしい。
国連は、紛争予防、和平交渉、平和構築の三つの段階で関与しているが、国連にすべてを任せてうまくいかなかったり、関係国が交渉しているアリバイとして国連の特使を形だけ立てるケースもあるようだ。

アフガニスタンの記述もある。
20年前、9・11テロの首謀者であるビンラディンを支援しているという理由でタリバンを掃討しようとアメリカが公然と介入し、その後、武装解除や平和構築に国連が携わった。日本もPKOやボランティアで協力した。
しかし、20年前にタリバンはアフガニスタンの約9割を支配していたのだ。
アメリカの後ろ盾で政権に就いたカルザイは、北部同盟という少数部族の集まりで、もともと支配基盤はなかった。
その後、タリバンは力を盛り返した。タリバンは地域の部族の利益を考えた統治を行っていたので今回もその方法で支配しているのだろう。
イスラム原理主義をどこまで徹底させているのは不明のところがある。
オバマ政権当時からアメリカはタリバンとの交渉もしていた。トランプ時代にリーダーとの交渉をトランプが始め、一気に進むかと思ったが、トランプは突然態度を変えた。アメリカの世論が見放すとおもったからのようだ。
そしてまた和平交渉は振り出しに戻っていた。アフガン政府、タリバン、タリバンから分裂したIS勢力の三つ巴の状態のようだ。

この本は、バイデン大統領が生まれる前に書かれている。
しかし、今のアフガニスタンを予想はできる。今回のようなことが起きても何の不思議もない状態だったのだ。
南スーダンの困難だった和平交渉の様子も書かれている。大統領派と副大統領派との交渉が二転三転してうまくいかなった。和平交渉を強制すると後で反発して和平が崩れることもあった。和平交渉から平和構築に移る時、関係者のうち誰かを排除するとうまくいかないということもあった。
その後の2017年に日本からもPKOが部隊で派遣された。その最中にまたしても内戦が激化した。南スーダンというのは一筋縄ではいかない地域のようだ。スーダンとの資源発掘、パイプラインの関係、周辺諸国との関係いろいろ難題があるのだ。

アフガニスタンに日本がどうかかわるべきか?
それは国民の関心次第だろう。
自衛隊がPKOで関わるのは一つの手段にすぎない。






この本はコロナ対策専門家会議のルポルタージュである。
映画にでもできそうな臨場感ある読み物だ。
一気に最後まで読んだ。
でも、内容は意外だった。いや、ちょっとショックだった。
副座長を務めた尾身さんが、「前のめり」の専門家会議だったとして反省しているのが随所に書かれている。
安倍首相は振り返りはコロナが終息してからと言ったのだが、尾身さんは解散する前から卒業論文として周知されるようになる総括文を書くことを決めていた。
尾身さんは日本に住む人々の命を救おうと、自分の危険は顧みず様々な問題に向き合った。WHOではポリオを根絶させた実績などから、西太平洋地域事務局長を務めた人。70歳を超えているにも関わらず、いや超えているからか、この仕事で命を落としても構わないと思っている。
他の人たちもそういう覚悟は感じられる。
その尾身さんが反省をして、次の組織のことを考えていたのだ。
政府や厚労省、そこの閣僚や官僚は間違ってはいけないことになっている。無謬が求められる。しかし、尾身さんはサイエンスは間違うことが前提の考え方をしている。だからなぜ間違ったのかを考えることが大事と考えているようだ。
サイエンスは仮説に基づいて、その検証で進歩してきた。今回も同じということなのだろう。

専門家が前のめりになったために、政策決定を専門家が行っているように国民から見られたことも反省のひとつだ。それは尾身さんたちが望んだことではなく、最初の制度設計が間違っていたのだろう。法的根拠に基づく会議ではないのに、総理や大臣とともに記者会見をしたことがそう思われた要因として大きい。御用学者と見られたのもこれが大きいだろう。
西浦さんの42万人死亡者予測の発表をめぐって、政府や厚労省と対立したことはむしろ政府と専門家が対立しているように見られるところもあった。
これは政府や厚労省がパターナリスティックな情報伝達を望むのに対して、尾身さんたちがインフォームド・デシジョンの手法を採ったからだ。つまり政府は国民がすぐにできないことは言うべきでないと思うのに対して、尾身さんたちはベネフィットとリスクを患者と共有する医療の考え方を好むのだ。

しかし、国民の批判が専門家に向かったときがあるのは、クライシス・コミュニケーションとリスク・コミュニケーションの使い分けが適切ではなかったとの反省もあるようだ。クライシス・コミュニケーションは危険が目前にあるとき、上意下達の方法で情報を伝えるのが有効だ。どこへ避難せよ!など。
しかし、危機がそう目前に感じられないときや去ったときは、相手の受け取り方を考慮して情報を共有しないといけない。
前のめりの専門家会議はそこが弱かったという反省だ。

専門家会議のなかの論争も激しいときがあったようだ。
尾身さんは会議から去ろうとする人には、去れば意見が反映されなくなると言って引き留めた。
分裂しそうになったときには、国民のことを考えよと言い、国民を救おうと思うわれわれがギスギスするのは本末転倒だと諫めた。

それぞれの専門領域での知見がある人たちが集まれば当然論争になるだろう。
会議のなかでやっている分には問題ないのだ。
しかし、「エリート・パニック」という知識人が自分を見失う現象もあるらしい。
今、メディアでいろいろ自称専門家が引き起こしている騒ぎはそれではないのだろうか、とふと思った。国民に誰かの批判を告げる前に専門家同士で議論すべきなのだ。







「もうだまされない・・・・」とはちょっと奇をてらったタイトルだが、とても真面目で信頼できる内容の本。
SARS、MERS、新型インフルエンザなどの経験のある呼吸器系感染症の専門医だからなんだろう。すべてウイルス学の知見や実験結果などの根拠が示されている。
こういう本に「もうだまされない」と出版社がタイトルにつけたがるのが、今のメディアや政治をめぐる状況を表していると思う。
『一家に一冊、新型コロナ感染症の常識』というタイトルにすべき本だ。
ただ、いくつか誤解を招くところもあると思う。
西村氏は、感染原因を「マイクロ飛沫」ではなく、「空気感染」と呼ぶべきと主張している。しかし、正確には大気の中を漂う小さい飛沫のなかのウイルスであるので、マイクロ飛沫のほうが正しいと思う。
また、空気感染が感染原因のすべてであるような表現があちこちにある。これは今後の研究を待った方がよいように思う。

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