憲法 第七版
芦部 信喜
岩波書店
2019-03-09


ブックカバーチャレンジ7冊目は、芦部信喜『憲法』。
憲法学の大御所、芦部教授が亡くなってもその門下生によってなお改訂が続けられるという本当に聖書のような本。
この本、安保法案問題のときに国会で安倍首相に「知っていますか?」というクイズを出すいぢわるな野党議員がいた。で、安倍首相が知らないということで大恥をかいた。まあ、一般人ならともかく法学部出身者では知らない人の方が少ないのではないか。実は安倍首相って法学部出身なのよね。でも、文学部出身の私が知っているのは、いくつかの国家試験を受験するときにこの本に出会ったからだけど。
芦部『憲法』は、職場に最新版、自宅にその前の版を置いて、憲法問題がニュースになったら見返すことが多い。
日本国憲法って憲法条文をお経のように唱えるものではない。ときどき胸ポケットに「憲法」を入れてそれを自慢げに見せる人もいけど、般若心経じゃないんだから(・_・、)と思う。
憲法について、改憲、護憲を本心から唱えるなら、この本と『憲法判例百選』は読んでからにしてほしい。憲法を変えていいのかいけないのか。どうして憲法を変える必要があるのか。変えないとそれは実現できないことなのか、これまでどういう司法判断があったのか、その限界は何かということなどがわかると思う。
もちろん、変える必要については、紀谷昌彦『南スーダンに平和をつくる』(ちくま新書)なんかを読むと、今、世界の平和のために日本が果たすべき役割は1947年の時点と大きく変わっていることを深く考えさせられる。


また、護憲派が一種のカルトと言われる根拠は、西修、百地章、篠田英朗らが指摘しているように、憲法学の学会の閉じた思考にもあると思う。芦部憲法を聖書扱いすることに典型だが、憲法について、変えるか守るかという政治対立的で閉じた議論をすべきではないと思う。世界の中で日本をどういう国にすべきかという議論を、政治的な敵味方に関係なく開いた議論すべきなのだ。在日外国人を含めて日本に住む人々がどのような日本という国を望んでいるのかという。
芦部一門と言ってもいろいろ考え方は違うもので、最近注目を浴びている木村草太より上の系統にあたる長谷部恭男氏の考え方が私には比較的しっくりきている。
この人、言っていることがわかりにくいのだけれど、『憲法の良識』(朝日新書)という比較的わかりやすい本がある。


この本で長谷部教授は故・芦部信義氏を「ピュアなパシフィズム(平和主義)」と捉えている。芦部氏が常備軍を否定して、「群民放棄」という市民のゲリラ戦を肯定していたことを暗に批判している。
長谷部氏は、ピュアな平和主義で改憲に反対するのではなく、立憲主義である日本を守るために反対って立場のようだ。 
ちょっと解説すると、まず、長谷部氏は戦争を憲法原理の戦いと捉える。中国が日本と戦うとき、中国が日本を自国の憲法原理で支配するため。日本も同じ。アメリカが日本に原爆を投下したのも同じ理由。戦争を終結して、日本の憲法を変えさせるためだった。戦後、日本は立憲主義の国になった。
長谷部氏が考える立憲主義とは広義には、憲法で国家を統制すること。狭義には、様々な価値観の国民が住む国であるためには、個人の自由を認め、公共の場ではそれぞれの権利の調整をする必要がある。それを憲法に定め、国会で法律化したり、裁判で争ったりして調整すること。 
今、家族を愛するとか、国を愛するとかいう価値観を憲法に書き込むような動きが生まれている。日本は独裁国、単一価値観の国にすべきではない。大戦を経て、日本は戦争放棄、戦力不保持の平和主義を屋台骨に据えた。しかし、これは自衛権を放棄するということではない。自衛権は自然権として存在する。 日本くらいの国が自衛のための戦力を保持するのは自然権の範囲。しかし、これは1974年から政府が述べていた個別的自衛権に限られる。 
長谷部さんの考えはだいたいこんな感じ。
個別的自衛権と集団的自衛権は分けられるものなのかという議論はあるけどね。
芦部憲法がまいた種はそれぞれの花を咲かせていると思う。
その花のひとつひとつをただ綺麗だ、綺麗でないと捉えるべきではない。
その花が息づく理由、花弁や茎、根のことまで考えるべきだろう。