書肆じんたろ

読書は著者との対話、知りたいことのseek & find、ひとときの別世界。 真理には到達できないのに人々はそれを求め続ける。世界が何であるかの認識に近づくだけなのに。正しいことより善いことのほうがいいときもある。大切なのは知への愛なのか、痴への愛なのか。

カテゴリ: 歴史

三国志 30 (潮漫画文庫)
横山 光輝
潮出版社
2000-03-23


『三国志』全30巻(コミック版だと全60巻)を読み終えて思うことは、諸葛亮孔明をもっと知りたいということだ。
文学に描かれている孔明よりも史実としての孔明を知りたい。
歴史上の人物で最も尊敬するのは、これまでは大久保利通だった。司馬遼太郎が描く悪役としての大久保利通ではなく、史実のなかの利通だ。
西郷隆盛との友情と明治維新の方向性の違いから離別したこと。
暗殺された日も警護は手薄だったこと。胸には西郷からの手紙を入れていたことなど。
ヨーロッパを見た大久保と、一度も見たことのない西郷の違いが明治維新のビジョンを分けたと思う。
それは大久保利通の研究者の成果を見ればわかる。

諸葛亮孔明とはどういう人だったのか?

劉備の漢王朝復興の夢を追い求めたが、志半ばにして逝った。
孔明は姜維に兵法の極意を託したが、姜維もまた蜀の衰退のもとで夢を果たせなかった。

帝の地位に憧れもせず、亡き主君のために知謀を巡らせて戦った孔明。
その能力の使い方を間違わなかった。
もし文学に描かれた孔明が実際にもそういう人だったのなら尊敬する歴史上の人物になる。

三国志 29 (潮漫画文庫)
横山 光輝
潮出版社
2000-03-23


三国志 28 (潮漫画文庫)
横山 光輝
潮出版社
2000-01-21


全30巻の愛蔵版『三国志』もあと二冊となったが、どこの京都市図書館も貸し出し中でなかなか「利用可」とならない。
29・30巻が「利用可」となったのは中京区にある中央図書館。
仕方がないのでそこまで行った。
考えてみると、最初全巻を読もうと思って、国際マンガミュージアムで開館から閉館までで三分の一までしか読めなかった。
コミック版全60巻のうち20巻まで読んだのだから、まあ善戦というべきだろう。

それから、京都市図書館の醍醐、山科で借りて読み、ない巻は、ネットカフェの快活クラブ大津膳所店で読んだ。
最後は京都市中央図書館で借りることになった。
『三国志』をめぐる旅は、京都市から大津市、マンガミュージアムから区民図書館、ネットカフェまで及んだ。
諸葛亮孔明は至る所にいるのだ。

三国志 27 (潮漫画文庫)
横山 光輝
潮出版社
2000-01-21


三国志 26 (潮漫画文庫)
横山 光輝
潮出版社
1999-11-22


この本の巻末に中国文学研究者の井波律子氏の「度量」という文章がある。

三国志世界の英雄のうち、大いなる度量の持ち主といえば、まず曹操である。とりわけ建安五年(二〇〇)、「官渡の戦い」でライバル袁紹を撃破し、華北の覇者となった前後の曹操は、的確な決断力と大いなる度量を兼ね備え、いかにも上り坂の人物らしい輝きに満ちている。このころ曹操がその度量の大きさをいかんなく発揮した二つの出来事があった。

一つは、建安五年、反旗をひるがえした劉備の拠点、徐州に猛攻をかけて撃破したさい、張遼の説得に応じて、条件付き降伏をした関羽に対する扱いである。関羽に惚れこんだ曹操は、贈り物攻めをするなどして、なんとか彼を傘下に入れようと苦心惨澹したが、劉備一筋の関羽の心を動かすことはできなかった。のみならず、関羽は劉備の居所が判明するや、許可を得られないまま、曹操のもとを立ち去り、行く手を阻む曹操側の五つの関所を破り、六人の守将を血祭りにあげるという壮絶な逃避行を敢行した。ご存じ「美髯公 千里 単騎を走らせ、漢寿侯 五関に六将を斬る」(『三国志演義』第二十七回)の名場面である。このとき、曹操は立腹するどころか、「彼は彼なりに主君のためにしているのだ。追ってはならん」と、いきりたつ配下を制止し、「こういう人物こそ、わしは心から尊敬する」と言って、餞別を与え潔く見送った(同上。こうした度量の大きさによって、曹操と関羽との間に敵味方を超えた心の繋がりが生じ、後年「赤壁の戦い」の後、敗走の憂き目にあったとき、今度は逆に曹操が関羽に救われることになる。

今ひとつは、[官渡の戦い]に勝利し袁紹が撤退した後、その残留品のなかから、曹操の配下がひそかに袁紹に送った手紙がごっそり出てきたさいのことである。このとき、曹操は「袁紹が強大だったときは、わしでさえ身を保つことができなかったのだから、まして他の者はなおさらそうだったにちがいない」と述べて、手紙をすべて焼却させ、いっさい不問に付した(『演義』第三十回)。このときの曹操は自信にあふれ、清濁あわせ飲む度量にあふれた颯爽たる英雄にほかならなかった。しかし、晩年になると、曹操もとみに権力志向を増し、これととともに、猜疑心も強くなって、持ち前の許容力にも翳りが生じる。華北の覇者となり、悠然たる度量の人だったこのころが、曹操の花だったといえよう。

このほか、攻撃精神の結晶のような呉の孫策も、決闘のあげく降伏した太史慈を全面的に信頼し、配下の反対を押し切って、軍勢を連れてくるという彼の申し出を期限付きで認め、太史慈もこれにこたえたという有名な挿話がものがたるように、なかなかの度量の持ち主であった。曹操や孫策はこうして余裕たっぶり、ここぞというときに、鮮やかにその度量を見せっけるが、一見、包容力にあふれている劉備はその実、どうも度量があるとは言い難い。身の置き場がなくなり逃げこんできた呂布をうかうか受け入れ、けっきょく拠点の徐州を乗っ取られてしまった顛末などは、単に無防備というしかないありさまだ。度量があることと無防備であることは、根本的に異なるのである。乱世の英雄の度量は、異質な者や容認しがたい者を受け入れても、自らがそれによって損なわれることはないという鋭敏な判断力があってこそ、威力を発揮するといえよう。

曹操という人はどういう人だったのか?
劉備、孫策と三人の間では一番興味が沸く。
横山光輝のこの『三国志』でも若いころ何度も負け戦で命を落としそうになっている。
敵将の関羽の才能と勇気に惚れぬいた逸話。
袁紹に寝返る部下の手紙を読まずに焼いた余裕。
見習うべきところが多い。

劉備がひたすら漢王朝の復興のためと民心を得たのに対して、曹操は戦の強さ、統治能力で世を治めた。
そういう視点でもこの二人を見ることもできる。

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