書肆じんたろ

読書は著者との対話、知りたいことのseek & find、ひとときの別世界。 真理には到達できないのに人々はそれを求め続ける。世界が何であるかの認識に近づくだけなのに。正しいことより善いことのほうがいいときもある。大切なのは知への愛なのか、痴への愛なのか。

カテゴリ: 社会学



マックス・ウェーバーの官僚制の考え方を確かめたくてこの本を読んだ。
『職業としての政治』とか『職業としての学問』とか政治家とか研究者になるにあたって大事なこともいろいろ書かれている。

ただ、今自分の問題意識は「官僚制」と「民主主義」なのでそのことだけを本の内容として記録しておく。
主な出典はウェーバーの死後に出版された『経済と社会』からである。

ウェーバーは支配の正当性の根拠に3つの類型を上げている。

伝統的支配:遙か昔から通用している習俗に基づいており、それに従おうとする態度が神聖視される。
カリスマ的支配:ある個人に備わって、非日常的な天与の資質(カリスマ)の権威に基づく。カリスマというのは、具体的には、その個人が受けた啓示、英雄的行為、指導者的資質などであるー「カリスマ」は語源的には「恩寵によって与えられた才能」を意味するギリシア語に由来する。予言者、人民投票的支配者、偉大なデマゴーグ、政党指導者等の支配がこれに当たる。
合法的支配:制定法規の妥当性に対する信念と、合理的に作られた規則に依拠する客観的な権限に基づく支配である。服従は法規の命ずる義務の履行という形を取る。国家公務員等の支配がこれにあたる。
『経済と社会』(1922年)
これら三つの類型のいずれかが純粋な形で存在することは極めて稀であり、様々な複合的な形態があるし、一つの類型から他の類型への移行がしばしば生じる。

近代化の過程の中で職業政治家が登場する。
彼らは「政治のために」生きるというより、「政治によって」生きている、という側面が強い。言い換えると、「政治」を自らの生業にしているわけである。彼らは、この意味で「職業政治家」なのである。ー日本語の「職業政治家」のニュアンスとほぼ一致する。・・・巨大化した国家機構を能率的に運営するには、専門的知識や訓練が必要である。「政治」に必要な専門的な技能を身につけ、それを本業とするプロフェッショナルが求められるようになる。

ウェーバーは近代官僚制には6つの特徴があると言う。
①法規または行政規則によって系統づけられた明確な官庁権限
②官職階層性と官庁相互の明確な上下関係
③文書と事務を司る各種スタッフによる職務執行
④専門的訓練
⑤官僚が全労働力を投入して職務に取り組むことへの要求
⑥職務執行のための規則への習熟

これは私企業でもほとんど類似である。
ただ違いは国家が税の徴収により財政を安定させるのと私企業が経営で安定させるのとの違いぐらいだろう。
特定の身分や出自の人が特権に基づいて支配権を行使していた前近代社会と違って、近代の大衆民主制の政治は、社会を構成する人々が平等な権利主体であり、支配する側が入れ替わる可能性が常にあること、及び統治の対象となる社会の規模が大きく、人々の利害関係、ライフスタイル、価値観が同質的でないことを大前提とせざるを得ない。そのため、専門的な訓練を受けた官吏たちが、(個人的な事情を交えることなく)抽象的な支配原則に基づいて、全ての人を差別することなく扱うことを基本とする官僚制が、行政の手段として適している。
人々が個人を平等に扱う要望から生まれた官僚制ではあるが、国家や政党が官僚制で動いていくと、政治の素人はそこで行われていることの是非に関して口を出しにくくなる。大衆は官僚制なしにはやっていけなくなり、大衆は官僚制に依存し、大衆がそれを壊して代わる仕組みを直ちに作り出すことはできなくなる。
そういう大衆にできるのはせいぜい行政指導者の選出方法を変更することと、「世論」等を通して彼らに影響を行使することくらいになる。
大衆の民主化要求に応えるためには、官職に就くための専門資格の要件を外すこと、選挙によって常にリコール可能にすること、在職期間の短縮などである。

つながり続ける こども食堂 (単行本)
湯浅 誠
中央公論新社
2021-06-08


「東京大学まで行きながら、なぜホームレス支援なんか始めたのか」「官僚とか商社とかに勤めようと思わなかったのか」と著者の湯浅誠氏は人から聞かれてきた。
湯浅誠氏は誤解を招きやすい人物だ。
それは本人のせいというより、周りがステレオタイプで人を何かのカテゴリーに入れたがるからだろう。
しかし、湯浅氏が一貫しているのは実際に生きている人たちとの接し方だろう。
湯浅氏は兄が障害者だったこともあって、社会で取り残される人たちのことに昔から関心があった。障害者の兄と遊べる方法を昔から考えていた。
ホームレス支援も政府委員就任も、左右の勢力から批判されているが、こども食堂への取り組みは湯浅氏のなかでは一貫した姿勢なのだろう。

こども食堂の価値は次の五点だと湯浅氏は言う。

①にぎわいづくり(地域活性化)
②子どもの貧困対策
③孤食対策
④子育て支援、虐待予防
⑤高齢者の健康づくり

いろんな人がこども食堂を支援している。
厚労省が動画を作る活動に資金提供をしたのは株式会社ほぼ日の糸井重里氏。
それを繋いだのは、ほぼ日学校校長の河野通和氏。
全国の社会福祉協議会やそれぞれの街の食堂経営者、学校の食堂運営者、自治会関係者などがこども食堂を支えている。

最後に湯浅氏は、安倍元首相が金子みすゞの詩を引用して、国会で言った「みんな違っていい」という多様性について賛同しながら、警告を発している。
みんな違っていい、だけでは分断、格差を生む。
そこに共同がなくてはいけない、と。

違っていいという「多様性」は包括性、インクルージョン、言い換えれば「配慮ある多様性」がなくてはならない。
多様性だけでは、「敬遠」「遠慮」「攻撃」を生む、と湯浅氏は言う。
そうなのだろう。

こども食堂は、ある意味、労働の贈与かもしれない。
モースがポトラッチの贈与に注目した。それは貨幣経済の中で、希薄になった人と人の繋がりを再生するものだと。
貨幣で交換されるモノばかりが、この世のモノではない。
むしろその外にある貨幣かされないモノこそ人の繋がりで需要かもしれない。
こども食堂は都市の中でひとつの繋がりのあり方を示しているのだろう。



最近の若い人たちが、映画を早送りで観るという現象について、違和感をもった著者があれこれ調べて書いた本。
この本自体が飛ばし読みできるほどスカスカなのが悲しい。

最後に、「倍速視聴・10秒飛ばしという習慣がなぜ現代社会に出現したのか」のか理由と背景をまとめている。

その基底にあったのは、次のものということ。

①映像作品の供給過多
②現代人の多忙に端を発するコスパ(コストパフォーマンス)、タイパ(タイムパフォーマンス)志向
③セリフですべてを説明する映像作品が増えたこと

①の背景には、Netfixなどの配信サービスをはじめとした映像供給メディアの多様化・増加
②の背景には、SNSによって共感を強要され、周囲が見えすぎてしまうことで、「個性がなければサバイブできない」と焦り、失敗を恐れる若者の気質
③の背景には、SNSで〝バカでも言える感想〟が可視化されたことによる「わかりやすいもの」が求められる風潮の加速と、それに伴う視聴者のワガママ化

でもまあ、これはビデオデッキができたことや衛星放送で「スターチャンネル」やWOWOWができたときにすでに始まっていたと思える。
要はたぶん人口比率が増えたということなのだろう。
しかし、あらかじめ早送りでストーリーを知る人のなかには、感情を揺さぶられたくない、感情を浪費したくないという人もいるとか。
コスパ、タイパ(タイムパフォーマンス)志向の究極の姿か?

これは映画が芸術家か、娯楽か?という古典的な問題でもある。
著者はこういう分類をしている。
芸術ー鑑賞物ー鑑賞モード
娯楽ー消費物ー情報収集モード
つまり、早送りや10秒飛ばしは、娯楽としての「映画」のモードであるという分析。
芸術と娯楽のカテゴリーの境はどこなのか? というツッコミも可能だが言いたいことはわかる。評論が成立しなくなっている昨今の映画批評の存在価値なんかがその表れだろう。

サブスクリプションで映画が大量に供給される。
みんな面白そうだけどそれらを全部見る時間はない。
バイトやオンライン授業で忙しいし。
それでビデオのザッピングみたいに見て、ストーリーや見所を把握する。
LINEなんかで友だちから「あれ、観た?」とか「あれ、おもしろい」「そうそう」なんかの話題が出たときに、話の輪に入っておきたい。
それに、個性が大事とか、他人と同じじゃいけないなんて言われ、オタクが蔑視される時代も終わった。
むしろオタクがリスペクトされる。かといって、オタクになるほど夢中になれるものもない。
だから、大量の映画を情報として処理することになる。

自分で楽しむだけでもザッピングしていた人は昔からいる。

でも、映画や小説はストーリーに入って、登場人物の誰かに感情移入して物語を体験するところにカタルシスを感じるのが映画の楽しみ方なんじゃないかと思っていた。
でも、わかりにくい映画はネタバレのレビューを見た方がストーリーがよりよくわかり、感情移入しやすいという人もいる。
たしかに『マトリックス』なんかはネタバレのレビューを見るか、何度か見ないとわからない。
まあ、映画の楽しみ方なんて、個人の好みの問題なんだろう。
制作者の意図とは異なるのかもしれないけど、それが誰でもが見られる「映画」なんだろう。
要するに「民主主義」社会の一現象ってことか。



柄谷行人と見田宗介。盛りを過ぎたと思っていた二人だが、大澤真幸のインタビューを読むと紅白歌合戦ならまだトリを取れる二人だと思った。

柄谷行人はマルクスが重視した生産様式ではなく交換様式で世界を捉え直した。
交換様式A:互酬交換(贈与と返礼)
交換様式B:服従と保護(略取と再分配)
交換様式C:商品交換(貨幣と商品)
交換様式D:実現していないカントの永遠平和のような世界

交換様式Dを説明するのは難しいが、大澤真幸によると交換様式Bの世界では交換様式Dが普遍宗教のような形で補助して存立していたという。
柄谷行人のこの捉え方は、絶対的剰余価値より相対的剰余価値に比重を移し、生産より流通にスポットを与える着想から成立している。
今のGAFA的社会を考えると、このように世界を捉えた方がすっきりするだろう。

見田宗介は日本の社会学を変え、『気流の鳴る音』などの著作で哲学や社会学の枠を超えて、新たな思想を提示したと思う。「交響するコミューン・の・自由な連合」というコンセプトは世界をひっくり返す感じ方とも思える。

この本で大澤真幸は柄谷行人と見田宗介の仕事を振り返り、二人の偉大さを賞賛するとともに「交響するD」という二人の理想を足して2で割ったような概念を示している。

ただ、この3人ともある種のユートピアを求めているだけのような気もする。
そんなユートピアは現実にはどこにもない。
ただ意識の中に存在するだけなのに。
しかし、限定された意識のユートピアは、教団や政党、学校、会社にも存在するけれど。



トランプ大統領が再選されるかどうか、世界経済に与える影響は大きいと思う。
この本は日本の社会学者・吉見俊哉氏がトランプ政権の発足後に、ハーバード大学で教えていたときの記録。
ただの記録ではなく、トランプ政権を、

①ポスト真実
②没落するラストベルトの白人労働者など階級意識
③ナショナリズムと人種主義
④性差別と暴力

の視点から分析している。

トランプ政権発足直後、「フェイクニュース」「オルタナティブ・ファクト」という言葉が話題になった。
フェイクニュースの発信源のひとつは、マケドニア中部の小都市ヴァレスの貧しい若者たちだった。若者たちになにか特別な思想があったわけではない。怪しげなサイトの広告収入を得るためだけだった。
ポスト工業化のなかで衰退していく街が増えており、それがグローバルに進行している。

トランプ政権はオバマ政権の反動で生まれた。ナショナリズムと人種主義の興隆は当然かもしれない。
ハリウッドのプロデューサー・ワインスタインがセクハラを告発され、MeToo運動のなかでワインスタインの会社が倒産した。銃規制が緩むなか、フロリダのダグラス高校の銃乱射事件で17人が亡くなった。その後、ポール・マッカトーニーらも参加するデモが広がった。
アメリカは格差が広がり、分断が進んでいる。それは国家の衰退と言えるかもしれない。

一方で、吉見教授はハーバード大学で教えるときに、東京大学との違いを実感している。シラバスは十倍の分量。授業は学生との契約であるという意識も徹底しており、学生・教授両者とも真剣。大学組織は専門化されており、教授より事務組織の権限が強い部門もある。
先進国の中でもアメリカの高等教育は格段に優れている。

その優れた教育の成果は情報や金融産業の一部の富を形成し、ピケティが指摘するように資産格差は拡大している。
この本はトランプ現象の深層を深く考えさせる。

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